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1
七宮神社

 
(高田屋嘉兵衛
ゆかりの社)

 
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『西摂大観』によれば、羽坂通には平安時代に小さな山があり、塩槌山と呼ばれていたが、平清盛がこの山を崩し、その土で経ケ島を築いたあとの小高く残った丘陵を羽坂といい、先端を針ケ崎と呼んだとされる。また、塩槌山に大己貴命(おおなむちのみこと)が祀られ、その神の怒りで風波を引き起こさぬようにと、七宮神社を建立して島の完成と港の安全を祈願したとされる。高田屋嘉兵衛は、西出町に住んで漕船業を営み、常に松前・函館に廻漕していたが、寛政十一年(1799)に幕府の命に応じて巨船を造り、国後・扶捉に向った。この時この神社に模型船三隻を献納して海上安全を祈願した。多くの廻船業者がこの神社に航海安全を祈願した。明治六年村社に同八年二月郷社になり、同十年五月県社に昇格した。昭和二十年の戦災により、宝物等は全部焼失した。

御祭神 大己貴尊(おおなむちのみこと)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
航海安全・土地開発・縁むすび・厄除として
徳の高い神様です
5/8-9 例大祭
11/23 新穀勤労感謝祭




2
松王丸入海の碑・墓

 
(築島寺)

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島上町は、承安年間(1171〜75)に平清盛が海を埋め立てて築かせた「経ケ島」の寄洲の上にできた町で、清盛は大輪田ノ泊修築工事にあたり、六町四方ほどの島を築き東南風を防ごうとした。しかし大風が吹くと島は崩れ、難工事だったので十七歳の松王丸が人柱となったという伝説が生まれ、経文を記した石を多く沈めて基礎として築いたので、経ケ島とも呼ばれるのだとされる。経ケ島の名は失われたが、町内の築島寺(来迎寺)には「松王小児入海」の碑と墓が残っている。


3
北浜惣会所跡

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鍛冶屋町は旧兵庫津北浜十一町の中心にあり、自治行政を行なった北浜惣会所が置かれていた。一帯は、安永〜天明期(18世紀後半)から兵庫津の商業、交易を独占した北風家の本拠地であつた。

 

4
正直屋邸跡

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南 正直屋(?井家)は本町二丁目あたりにあった。北風家と同様、兵庫の旧家で室町時代から名が現れ、同家は兵庫の関の代官を勤め、問丸(といまる)も営んでいたようである。豊臣秀吉は明智光秀を滅ぼした天正10年(1582)に大坂に築城を始め、その翌年に兵庫の関税に目をつけて取り立てをした。船役銭という名目でその取り扱い方を正直屋に命じた。また、船役だけでなく「座」すなわち商業組合の税も町の税も正直屋に取り扱わせていた。江戸時代には名主を勤めた。貴重な古文書、絵図が所蔵されていたが、戦災にあって他へ移った。

5
北風家の
隆盛

 
(鍛冶屋町)

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北浜とは、東出、西出、川崎、東川崎、北宮内、宮内、宮前、松尾、匠、鍛冶屋、島上の11町を指し、豪商北風家があった。北国船の入港した時代には特に繁盛し、日本の海運のうえに大きな地位を占めていた。惣会所には行政をつかさどる名主以下が勤務していたが、北浜の名主には北風家が多く選ばれていた。

6
高田屋
嘉兵衛
顕彰碑

 
(竹尾稲荷神社)

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高田屋嘉兵衛は淡路島に生まれたが、寛政4年(1792)24歳で兵庫に移って船乗りになり、その後自ら船を建造して船主となった。やがて西出町に本店を置き、後に函館と大坂にも支店を設けた。西出町の邸宅のあった場所は現在の公社賃貸入江住宅(旧入江小学校跡地)のあたりで、ここには、昭和28年に地元の有志によって高田屋嘉兵衛顕彰碑が建てられたが、今は近くの竹尾稲荷神社に移設されている。


7
札場の辻跡

 
(西国街道)

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南仲町の辻は兵庫の宿の中心で、東から入ると西国街道は南仲町から大きく右折していた。ここには高札場(町人への法令や、幕府の布達を掲示する札を立てる場所)があったので、俗に「札の辻」とも「札場(ふだば)の辻」とも呼ばれていた。兵庫の高札場は、ここと東西の惣門と島上町の来迎寺(築島寺)前との四ヵ所にあったという。特にここは神明町の宿の本陣にも近く、兵庫宿の中心地であったことからよく知られていた。

 

8
岡方
惣会所跡
の碑

 
(築島寺)

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本町公園西の岡方会館が惣会所跡で、同会館には多数の古文書などが保存されている。古い兵庫は町部分と田園部に分かれて、町部分を地子方(じしかた)といい田園部を地方(じかた)とよんでいた。地方は代官が支配し、地子方は大坂町奉行支配で、派遣された与力が管轄していた。この町方つまり地子方は、岡方、北浜、南浜の三つに分けて三方(みかた)といっていた。岡方は浜に接しない町々を含めて総称していた。

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